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武神の誕生―その必然 [雑感]

さきの記事を書き終えて、少し考えていたのだけれど、なにゆえ信長は武神とならねばならなかったのだろうか。

三英傑のうち、家康は病死といわれる。
また、家康は75歳まで生きた長寿の人でもあった。
死後は孫によって神として日光東照宮に奉られており、彼が祟り神になる恐れはまずなかったといっていい。

秀吉は死因は不明だが享年は62歳。
彼も戦での死ではなく、城内で没したと思われる。
ただ家康とは違って祀ってくれる子孫はなかった。
一度は後陽成天皇によって豊国大明神として祀られたものの、秀忠によって社領没収されたという。
現存の豊国神社は明治天皇によって再興されたものだそうだ。
武将としての功績は高く、それに比して死後の扱いは低かった。
けれどもその死は横死とはいえない。
ただ無念や未練があるだけでは祟り神にはなれまい。

こうしてみると、秀吉よりも秀頼のほうが祟り神になる要素があったように思えるのだが、いかんせん武将としての功績があまりにもなさすぎる。
史実はどうであれ、秀吉の寵愛によって権力を得た母・淀殿の操り人形として人々に捉えられていたのではあるまいか。

こうしてみると、信長の武勲の高さとその死の無惨さが際立つ。
横難横死という言葉がぴたりと当てはまる。
そして、彼の子孫には、彼を神として祀る力は残されてはいなかった。
生前の功績の輝かしさと志半ばでの死、そして死後の扱いの寂しさの差は他のふたりとは比べものにならない。
徳川の治世が終わって明治を迎えるまで、信長が神として祀られることはなかった。
それまでは、彼にはただ墓所があるのみだった。
つまり、祟り神となる要素を一番色濃く持っていたのは信長といえよう。

強大な力を持つものの祟りを畏れて神として祀りあげることは往々にしてある。
疫神牛頭天王もそうであった。
疫病をまき散らす悪神は、祀り上げてその悪性を封じてしまう。
さらには、民はときにその強大な疫の力を守護に変えようとするのだ。

武将が祟り神にならぬよう、武神として祀り上げてその力を昇華せしめんとするとき、民の力では社殿を建立することはとてもできない。

すなわち、壮麗な社殿の代わりに民が武神に捧げたのが可憐にして賢明なる小さ神・蘭丸ではなかったか。
蘭丸への讃美の言葉は横死に歯噛みする武将への祝詞となり、彼をして武神へと転身せしめたのではないか。

…とここまで迷走したけれど、信長・蘭丸伝説の享受史として纏められたらなぁ…。
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