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童子神・小さ神の誕生 [雑感]

このところずっと、稚児文化を理解するために文献を読みあさっている。
そこで避けて通れないのが童子神信仰だ。
童子に特別の神性を感じるのは日本古来の信仰の一つである。

童子といっても女児は含まれない。男児限定である。
おなじみの金太郎や桃太郎も童子神の一つだ。
金太郎は前述の通り異種婚で生まれた神の子であるし、桃太郎も桃から生まれたとされる神の子である。

では、神の子はなぜ生まれるのだろう?
神の子が生まれる必然性とはなんだろう?

このところ、森蘭丸のことを考えている。
織田信長とともに本能寺で討ち死にした若者である。
今は「森蘭丸」として著名だ。
信長の一の寵童であり、美少年であると伝えられている。
が、彼の本名は「森成利」で、幼名は「森乱丸」または「森おらん」と書かれることが多い。
信長の寵童とされるが、信長が彼を寵愛したとの事実は確認しがたいという。
また、史書類には彼が美少年であったとの記述もないという。
(このあたり、文献にてきちんと確かめねばならない。)

なにゆえ「信長のいち近習・乱丸」が「信長の一の寵童・蘭丸」に変化したのか。

ひとつは信長が三英傑のあとのふたり、秀吉や家康に比べて「伝説」を多く持つ武将であったことと関連するとわたしは考えている。
幼い頃に乳母の乳首を噛みきっただの、父の葬儀にとんでもない恰好で現れただの、若い頃のうつけ伝説に始まり、逸話に事欠かない。
志半ばで死亡したことも相まって、彼の伝説性は他のふたりに比べて格段に高いと言えよう。

だが、武将信長が伝説的存在―武神―になるには、その神性をさらに高める必要がある。
そこで注目されたのが乱丸ではなかったか。
強大な力を持つ偉大な武神に寄り添う可憐な童子神として。

それでは、信長の傍に侍る数多くの小姓の中で、乱丸にその役が与えられた理由はなんだろう。

考えられるのは、乱丸の父可成が死亡したとき乱丸はわずか5歳であったことだろうか。
信長にとって、武功の果てに死んだ家臣の遺児にはひとかたならぬ思い入れがあったと推測される。
信長は非情かつ冷淡といわれているが、津田信澄の養育の件を見ても、子供には厳しい手段をとらなかったようである。
そこに、彼に育て神としての性格を見出すことができよう。

そして、幼くして父を失った乱丸は信長に父の姿を見たのではあるまいか。
乱丸の兄長可は父の死亡に伴って13歳で家督を継ぎ、いわばもう成人として活躍の場を得ていた。
となると、可成の遺児の中で、童子性を持っていたのは乱丸・坊丸・力丸・千丸となる。
まだ幼かった千丸以外の3人は本能寺で信長とともに討ち死にをしている。
(千丸はこの後、森家の家督を継ぐことになる。)
このうち、近習としての勤めを果たした実績があると言えるのは恐らく乱丸のみであり、あとのふたりは幼すぎたのだ。
すなわち、信長の小さ神に成り得たのは乱丸ひとりと言えよう。

そう、育て神信長に小さ神蘭丸を添えて、武神伝説は完成を見たのだ。
そこに乱丸が蘭丸へと変化する要素があった。
乱丸から蘭丸へ、その伝承の変化の様子を追っていけば、小さ神の誕生の軌跡を探ることができよう。

…今後の課題として、ひとつ置いておく。
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