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「土佐源氏」と「チャタレイ夫人の恋人」 [読書感想]

少し前に、「土佐源氏」を読んだ。
著者の宮本常一が調査の折りに「チャタレイ夫人の恋人」を携えようとし、それを夫人に荷物から抜かれのだそうだ。
「土佐源氏」の成立に「チャタレイ夫人…」が影響しているのは間違いないだろう。
私は、宮本氏が日本版「チャタレイ夫人…」を書こうとしたのかと思った。
そこで、20年振りに「チャタレイ夫人…」を読んでみた。

両方を読み比べてみると分かるのだが、「チャタレイ夫人…」の方は、性行為そのものにはあまり重点を置いていない。
語彙としてペニスだの尻だのでてはくるが、それだけだ。
猥褻感はまったくない。
むしろ、彼らの行為は「え、もう入れちゃっていいの?」と驚くくらい淡泊だ。
裁判になるくらいなのだから、もう少し官能的なのかと身構えたこちらが悪いのか。
「チャタレイ夫人…」はどちらかというと自然回帰や文明批判の方に重点があって、性行為はそれを導き出すきっかけのようなものだ。
拝金主義、機械文明、精神主義、産業革命。
それらの批判として自然回帰、肉体主義を唱える。

一方、宮本の「土佐源氏」「土佐乞食のいろざんげ」はどうだろう。
「土佐源氏」は性交に関する記述はかなり削られている。
「土佐乞食…」はかなり詳細に描かれている、というか性交に関する記述だけやたら詳しい。
まるで春画の地の文のようだ。
宮本はこれを創作だと言われて憤慨したと言うが、これが創作に違いないことは「柳田国男・民俗の記述」に詳しい。
評伝を読む限り、宮本はどこか、ふつう区別すべきところを区別せず、あらゆるものを渾然と一体化する力を持っていたように思う。
男と女を。自分と他人を。よそ者と身内を。子どもと大人を。あらゆる階級のひとを。
そして学問と創作を。

これを真実だと思って読むひとが、今でもいかに多いか。
創作であっても、この作品の価値は変わらない筈だ。
後世の混乱を防ぐためにも、これは創作なんだよ、と一言いってほしかったと思うのは私だけではないだろう。

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