中世の恋 [雑感]
ホイジンガは、『中世の秋』において、彼らの悲恋は身も心も許しあった恋人たちが死によって引き裂かれることにあり、決して恋の成就がなされなかったことにあるのではない、とした。
悲しく終わる古代の恋物語の、その悲しみの基調は、満たされぬ恋の想いにあるのではない。すでに身も心もひとつになった恋人たちを死がひきさく残酷な別離にある。(略)悲嘆の情は、満たされぬ官能のうずきに発するのではない。悲しい運命が涙を誘うのである。(P225)
『小柴垣絵巻草子』において、斎宮は男に恋するやいなや、その肉体を以て彼を誘惑する。つまり、恋=肉体関係の成就である。
そこには告白しようかすまいか、といった懊悩はない。
斎宮としての自分の立場を鑑みたり、あるいは告白して断られたらどうしよう、などという葛藤はない。
実に即物的な、恋=相手を乞うこと、恋の成就=相手を手に入れること、の図式が見える。
となると、能曲『卒塔婆小町』における深草の少将の苦しみは、九十九夜の長きにわたる叶わぬ恋の悩みにあるのでななく、小町が彼の思いに答えてくれなかったこと=肉体関係が結べなかったことにあったのではないか。
最近中世関連の本を読んでいるので、ちょいと思いついたまで。
悲しく終わる古代の恋物語の、その悲しみの基調は、満たされぬ恋の想いにあるのではない。すでに身も心もひとつになった恋人たちを死がひきさく残酷な別離にある。(略)悲嘆の情は、満たされぬ官能のうずきに発するのではない。悲しい運命が涙を誘うのである。(P225)
『小柴垣絵巻草子』において、斎宮は男に恋するやいなや、その肉体を以て彼を誘惑する。つまり、恋=肉体関係の成就である。
そこには告白しようかすまいか、といった懊悩はない。
斎宮としての自分の立場を鑑みたり、あるいは告白して断られたらどうしよう、などという葛藤はない。
実に即物的な、恋=相手を乞うこと、恋の成就=相手を手に入れること、の図式が見える。
となると、能曲『卒塔婆小町』における深草の少将の苦しみは、九十九夜の長きにわたる叶わぬ恋の悩みにあるのでななく、小町が彼の思いに答えてくれなかったこと=肉体関係が結べなかったことにあったのではないか。
最近中世関連の本を読んでいるので、ちょいと思いついたまで。
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