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日本語をつくるもの [日本語]

 「ここはどこ、わたしはだれ」という、いわゆる「記憶喪失」というものがある。
医学的には「全自分史健忘」というらしい。
小説やマンガでよく使われるネタのひとつであろう。 
この「記憶喪失」が科学的、医学的にどうなのか、と気になったことをきっかけに、記憶と健忘についてネットで検索したり、本を読んだりしている。

「記憶喪失」というのは一般的に知られている語彙であるが、神経学的には「健忘」の語を使う。
この健忘にも幾つか種類があるのだが、今のことを覚えられない「前向性健忘」と、過去のことを思い出せない「逆向性健忘」というのがある。
先の「記憶喪失(全自分史健忘)」は「逆向性健忘」の一種である。

今、『記憶と健忘』(マルク・トリエ、ベルナール・ロラン著、平山惠三他共訳、西村書店、1998)という本を読んでいる。
書名通り、これは神経学的見地から記憶と健忘のメカニズムについての専門書である。
原著はフランス語で、3人の日本人神経学者・神経科医が共訳しており、誰がどの部分を担当したのかは明記されていない。

なぜ訳者が気になるのかいうと、漢字表記に乱れがみられるのだ。
本著に限らず、ネット上の健忘に関する記事によくある乱れが「逆行性健忘」と「逆向性健忘」の混在である。
このふたつの術語に違いがあるのかどうか、全くのしろうとであるわたしには判別しがたい。
ただ、ざっと検索した範囲によるとどちらも英語ではretrograde amnesiaの語をあてている。

どうもこの二語には意味上の違いはないようだ。
逆行性(逆向性)健忘というのは、過去のことを思い出せないという症状である。
意味からすると、漢字表記は「逆行」「逆向」どちらでもよいように思われる。

『日本国語大辞典』には「逆行」「逆行性健忘」の項はあるが、「逆向」「逆向性健忘」の項はない。
ATOKにも「逆行」は登録されているが「逆向」は登録がない。

では、「逆行性健忘」の方が正しいのかというとそうとも言えない。
「逆行性(逆向性)健忘」は「前行性(前向性)健忘」と対になる症状である。

『記憶と健忘』では、「逆向性健忘」「前向性健忘」の用字を主に使用している。
インターネットで検索した限りでは、「前向性健忘」「前行性健忘」のどちらも通用しているようである。

『日本国語大辞典』には「前向性健忘」「前行性健忘」ともに記載がない。
また、「前行」はあって「前向」はない。
ATOKには「前行」「前向」ともに登録されていない。

今思いついたのだが、「逆向」は訓読み「ぎゃくむき」から音読みを連想したものかもしれない。
後ろを振り返ることを「後ろ向き」「逆向き」とは言うが、「後ろ行き」「逆行き」とは言わない。
「前向き」から「前向」を、「逆向き」から「逆向」を。
そう考えれば、「前向性健忘」「逆向性健忘」の用字がしっくりくる。

さて、実は本項はこの用字の是非を問いたかったのではない。
このように紛らわしい複数の用字が混在すること、あるいは同音異義語が多く存在することで喚起される、日本語の表記のことについて述べたかったのだ。

『記憶と健忘』には、一段落中に「逆向性健忘」「逆行性健忘」の用字が混在する箇所がある。

 >逆行性健忘はどちらかというと常同的なあらわれ方をするが、その頻度と病態生理について非常に数多くの研究が進められている。実際には逆行性健忘が短いほど記憶強化課程に障害が求められることが容易に分かる。反対に逆行性健忘が長いときは想起レベルでの障害がその原因と思われる。(P181)

索引によると「逆向性健忘」は本書中10ページ中にあるが「逆向」「逆行」が混在するのはこのページのみであり、他は全て「逆向性健忘」である。

インターネットではこの混在はよく見られ、「東京都神経科学総合研究所」のサイト(http://www.tmin.ac.jp/medical/06/rehabili3.html)をはじめ、文責の分からぬ質問サイトなどには枚挙のいとまのないほど存在する。

また、『記憶と健忘』に「術語」を誤って「述語」と書いているところが2箇所ある。

 >アングロサクソン系は十分な明確さを欠く健忘症候群amnestic syndromeという述語を好んで用いるが、Korsakoff症候群と健忘症候群とは実際に同義語となってしまっている。このような事情から記述にあたってはアルコール由来か否かを明らかにしなければならず、さもなければアルコールが原因の場合には《Korsakoff精神病》なる述語を使用しなくてはならない。(P113)

ここも、どなたの筆になるものか分からない。
訳者諸氏のいずれも錚錚たる学歴の持ち主であるから、「述語」「術語」の違いが分からぬということはあるまい。
昔のように印刷所が原稿を見ながら版を組んでいた時代なら印刷所のミスも考え得るが、今ではあり得ないだろう。
これは単にIMEの変換ミスである可能性が高い。
きっと、「じゅつご」と打ったら「述語」と変換され、そのままEnterを押してしまったのだ。

先ほどの「逆行」と「逆向」の混在もおそらくそうだろう。

このようなミスは、手書きではまずあり得ない。
漢字の書き間違いや誤字はあっても、ひとつの語彙の用字が統一できないとか、明らかに意味の違う同音異義語を書き誤ることはないだろう。

日本語のようにいったんかなを打ち込んでから漢字に変換しなければならない言語の場合、誤変換は宿命とも言える敵である。
ATOKのようにある程度日本語として定着している漢字表記をあらかじめ登録しているIMEならまだいい。
google日本語のように、ネット上で通用している漢字表記を逐次拾ってくるタイプのIMEを使っていると、ネット上で広まってしまった誤表記や造語(以前書いた「注挿」なる語もそうである)が当たり前のように変換候補に挙がってしまうことがある。

かつて、木簡に筆と墨で文字を書き付ける時代があった。
それから紙に筆、墨で書く時代に移った。
木版印刷が普及した時代もあったが、原稿は手書きのものを版に写したものが大半だった。
それから活版印刷に移行しても、なお原稿は手書きであった。
さて、今はワープロソフトやエディタソフトを使い、IMEで漢字に変換する時代になった。
ひとの手が打つのはローマ字かかなであり、漢字を直接書くことはない。
IMEという漢字変換機能が、日本語の表記に与える影響は多大である。
あるいは、これが日々新しい日本語の表記を作り続けているとも言えるのだ。

IMEが日本語を狂わせているというのではない。
自動車の普及が自動車事故という新しい災害を生み出したように、IMEが誤変換という新しい誤表記を生み出し、インターネットがそれを無限に広げる可能性を持っている、ということだ。

いずれにせよ、誤りのもとは使用者の不注意にある。
手元の日記に書き付ける場合はともかく、たとえ読者の殆どいないブログや、フォロワーの殆どいないツイッターであっても、表記に対する注意は怠ってはならないのだ。

タグ:漢字表記
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